実りの色は赤い果実 -55-
芸術の国プラントの主都アプリリウスは今日も穏やかな天気に恵まれていた。 いつもと変わりない日常、いつもと変わらない日々。 最後のサインを書き終わったギルバートは書類から目を離し、羽ペンを戻すと書類を脇の 束に重ねた。 机上に置いておいた懐中時計はそろそろティータイムだと告げている。 キリも良いので休憩しようと時計の蓋を閉じた。 そしてふと、机上の端にいつも置かれている指輪が目に入り、ギルバートはそれを手にと る。 赤い石が嵌め込まれた銀の指輪――― 彼女との約束の証。 守られなかった約束の指輪だ。 それでも手離せずまだこの手の中にある。 「10年、か…」 もうそんなに月日が経ってしまったのか。 彼女と結婚の約束をしたことも、互いの幸せを願って別れたあの日も、つい最近の事のよ うな気がしていた。 思い出の中には彼女しかいない。他の記憶は残していない。 時の流れは想いを消してくれなかった。 "彼"の言う通り、自分の"時"はあの頃で止まってしまったままなのだろう。 「今更―――…」 最後に会ったのは一月前、懐かしい夢を見た数日後。 『―――見損なったわ。』 彼女はその一言を残してギルバートに背を向けた。 ―――あんな夢を見たからだ。 心がざわつく。冷静でいられなくなる。 ミネルバの町から嘆願に来たという夫婦は並んでギルバートの前に立っている。 すっかり落ち着いてしまった彼女は、それでも美しさは変わらなかった。 ただ、彼女との距離は遠く、隣に立つのは自分以外の別の男。 ぐちゃぐちゃになってしまった感情はすでに限界を超えていて、取り繕うこともできなく なりそうだ。 「―――それで? 私にどうして欲しいと?」 ひと通りの話を聞き終えたギルバートはただそれだけを冷たい声で言い放つ。 途端に彼女の表情から血の気が引いた。 「だから今伝えました! 他に何があると言うんです!?」 「窮状は聞いたよ。だからそれで私は何をすれば良いのかな?」 優しい言葉をかけられない。 どこか小馬鹿にしたようにも聞こえる言葉と態度に隣の"姫君"も驚いた顔をしていたけれ ど、それすらも構えないくらいに頭は考えることを放棄していた。 「っ 貴方それでもッッ」 「できれば資金援助を。ミネルバは商業の流通で成り立っています。しかし麦の値段の高 騰であちこちで諍いが起こり、他の品物の流通にも支障をきたしてしまいました。」 タリアの口を文字通り手で遮って 彼女の夫が彼の問いに答える。 押し黙った彼女を見てまた心がざわついた。 「そうなる前にはどうにもできなかったのかな?」 「ええ、気づいた時にはすでに遅く…」 申し訳無いと謝る夫を見たタリアが再び彼の前に出る。 「ちょっと、どうしてこちらだけが悪く言われなければならないの?」 怒りを露にした彼女は敬語すらかなぐり捨ててギルバートを睨みつけた。 「元々は貴方がリヨンの町だけを支援したからバランスが崩れたんじゃない。」 「…君は私のせいだと言いたいのかな?」 「あら、違うのかしら?」 「違うの!」 今度はギルバートの隣で青い顔をしていた姫が2人の間に割って入った。 「あれは…っ あれは私が援助すると言ってしまったからだわ。一度言ってしまったものは どうにもできないからっ」 必死で弁明する彼女を制してギルバートは首を振る。 「良いのです、姫。」 「そうです。姫君は気になさらなくて良いのです。こんな男を庇う必要ありませんわ。」 姫君に対しては優しい声音で応え、再び視線をギルバートに戻したタリアはさらに眼光を 鋭くした。 「貴方が知らないはずがないわ。知っていて許したのでしょう?」 「知っていたとして、何故私がそんなことをする必要が?」 挑戦的な瞳を受け流して苦笑いで返す。 そんな彼にタリアは誤魔化さないでとぴしゃりと言い放った。 「前々から嫌がらせをしていたじゃない。理由は知らないけれど。」 気づいていたのかと感心しつつ、その理由に気づいてくれなかったことには僅かばかり落 胆する。 しかし仕方がないとも思う。すでに彼女の中では過去のことなのだろう。 それがとても哀しくて、少し悔しくて。 だから優しい言葉はあげられそうになかった。 「…全ては君が望めば済んだことだよ。」 「え?」 「君の一言があれば私はすぐにでも止めただろうね。今も昔も私を動かせるのは君ただひ とりだ。」 困惑する彼女はまだよく分かっていないようだ。 その隣で彼女の夫が苦笑いをする。 「人の奥さんを口説かないで下さいよ。」 「!?」 彼の言葉でようやく意味を理解したらしい。 「っ! 冗談じゃないわ! 絶対にお断りよ!!」 怒りのあまりに見る見る顔を赤くした彼女は 頭に血が上ったままに思い切り叫んだ。 「タリア。止めないか。」 「ナギ…ッ ……分かったわ……」 彼がたしなめると再び大人しくなる。 まだ何か言いたそうにしていたが、今ここで言うことではないと判断したのだろう。 彼女が一歩下がるのを見てから彼はギルバートと姫に深く礼をした。 「すみません お時間を取らせました。宰相殿のことですから、国全体を見ての対応をされ るおつもりなのでしょう。時間がかかるのは仕方のないことだと理解しました。しかしこ ちらも限界がありますから、できるだけ早急な解決をお願いします。」 「―――見損なったわ。」 言い捨ててさっさとタリアは出て行ってしまう。 それを視線で見送ったナギは、くるりと振り向いてギルバートを見上げた。 「君は一途だね。」 彼はギルバートの気持ちに気づいていたらしい。 まだ彼女を愛していること、忘れられていないこと。 複雑そうにしている表情がそれを示していた。 「でもね ギルバート、10年は長いよ。君は変わらなくても周りは変わっているんだ。」 宰相相手ではなく同郷の友人として、彼は諭すように静かな声で言う。 「本気で取り戻そうとするなら受けて立つけど、そう簡単にはいかないと思って欲しい。 僕もこの10年努力をしなかったわけじゃないし、彼女はもう子どものいる母親だ。」 先ほどから何も応えないギルバートに彼は兄か父のような顔で苦笑いした。 「…君はまだあの時で止まったままなんだね。でも時は確実に流れている、それは思い出 した方が良い。」 そして最後にもう一度深く礼をすると、彼も部屋を出て行った。 時は確実に流れている。彼女はこの手には戻らない。 そんなことは分かっていた。 たとえ本気になったとしてもきっと彼には敵わないだろう。 1人だけ時を止めたままでいても仕方がないことも本当は分かっている。 でも、それでも手離せない指輪。 これを捨ててしまえればどんなに楽になるだろう。 「失礼します。」 コンコンと扉を叩く音の後で、1人の女性が入ってくる。 今までの思考を打ち切って指輪を元の位置に戻すと、ギルバートはこちらへ来るようにと 彼女を促した。 「やあ サラ。…その様子だと今日も良い結果ではなかったようだね。」 >>NEXT --------------------------------------------------------------------- 何でかギルの回想が入ってます。未練タラタラかー(笑) まぁこれ原作のイメージまんまなんですけどね。タリアは過去だけれどギルはまだ時を止めたまま。 主人公が入れ替わってる気がするけど気にしなーい。←