聖母 −父親−


 試験前の勉強を母さんがアスラン兄さんに頼んでくれた。
 夕飯前後の数時間ではあるけれど、彼は快く引き受けてくれて。
 忙しい中に取れた僅かな休息を奪ってしまって良いものかと思いもしたけれど、頼ってくれて
 喜んでいると母さんに言われたことを信じることにした。




「ここはこの公式の応用で…」

 ―――教え方は母さんの言った通りすっごく上手だった。
 丁寧で、ポイントのみを上手くおさえた説明は分かりやすくて。
 これなら今度の試験は余裕でパスできると思う。
 元々成績は悪い方ではないけれど、今の範囲はミスが多かったから自信がなかったから。


「そうしたら@の式を代入する。次に、」
 説明を受けながら、そっとアカツキは彼の手元から視線を上げる。

 精巧な職人が作り上げた人形のような 端正な横顔。
 普段は特に意識していないけれど、改めて見ると稀なほどに整っているとびきりの美形だと分
 かる。
 …まぁ、母さんの周りには兄さんに負けず劣らず容姿の整った人がやたらに多いんだけど。
 カッコ良くて頭も良くて、全てにおいて優れていて。およそ欠点の見つからない人。
 こんな人が今だに独身だなんてすごく不思議。
 ―――…もちろん理由もちゃんと知ってるけど。


「アカツキはのみこみが早いな……って、」
 じっと見ていたら顔を上げた彼に不思議そうに首を傾げられた。
「…アカツキ?」

「―――兄さんは結婚しないの?」
 試験勉強を教えてもらっている立場ではあるまじき発言だったそれを、アスランは怒るでもな
 くただきょとんとした目で見る。
「お前の母さんが承諾したならすぐにでもするけど?」
 そしてさも当然のようにそう答えてきた。
 こういうことを"息子"である僕にあっさり言うのってどうなんだろうと思うけど。
 この人は元からこんな人だし。
「…何で母さんは結婚しないのかな?」

 それはずっと疑問だったこと。
 兄さんと母さんは周りから見ればとっくに結婚しててもおかしくない間柄。
 でも母さんは絶対に首を縦に振らない。
 それが不思議で仕方なかった。

「……今でもキラにとってはお前の父親が1番で、忘れられないからだろ。」
「え?」
 思ってもいなかった言葉に、アカツキは驚いて聞き返す。
 今のは聞き間違いじゃないだろうかと一瞬思ってしまうくらい、それは予想外の言葉で。
「俺じゃ敵わないからな。」
 少し沈んだ様子の彼の心情はなんとなく理解した。
 でもそれは、彼の言葉が嘘じゃないと教えるものでもあって。
「…僕、お父さんいるの?」
 呆然としていたアカツキには 自分の無自覚の呟きすら聞こえなかった。

 誰も教えてくれなかった。
 だって、母さんは一人で産んだんだって聞いたから。
 母さんは"聖母"だから、だから僕に父親はいないんだって。

 それが当たり前のように言われて育ってきて、だから何も言わなかったけど。
 だけど、本当は、、


「知りたい?」
 胸のうちを見透かしたかのような言葉にドキリとする。
 アスランはそれ以上を言わず、アカツキをただ見つめていた。

「……知りたい。」
 息を詰めて頷き、アカツキもじっと相手を見返す。


 本当はずっと知りたかった、僕の"お父さん"のこと。

 母さんにはなんとなく聞けなくて。
 聞くのが、…怖くて。


 お互いに黙ってただ見つめあうこと数十秒。
 …本当はもっと短かったのかもしれないけれど、アカツキにはとても長く感じた。




「―――カミサマ。」
「え゛」
 さっきまでの緊張感はどこへやら、呆けたアカツキにアスランは意地悪く笑う。
「聖母は神から子を授かったんだろ? 違うか?」
「そ…ッ!」

 そんなの、僕だって知ってるよ。
 本で何度も読んだから。


「…からかったな。」
 こっちは真剣な気持ちで聞いてたのに と、睨み上げれば相手は意外にもすでに笑みを収めて
 いた。
「からかってはいないさ。つまり敵わないんだ 俺は。」

 ―――誰に?
 聞こうとして聞けなかったのは、寂しそうで哀しそうな瞳を見てしまったから。

「キラはただ放っておけないだけだ。そして俺はその優しさに付け込んでいるだけなんだ。」
「? 母さんは兄さんが好きだよ?」
 素直に言ってみたけれど、彼はありがとうと言いながらも晴れない表情のまま。

 アカツキにはそれがすごく不思議だった。

 母さんは兄さんが好きで、兄さんは母さんが好きで。
 なのに、どうしてそんなに哀しげな顔をするんだろう?



「僕さ、アスラン兄さんなら父さんって認められるよ?」
「え―――…」
 彼にとっては予想外のことだったのか、アカツキの言葉にアスランは驚いた顔をする。
 ちょっと早まったかなとも思ったけれど 今更引けなくなって意を決した。

「だって… 小さい頃から遊んでもらったり、父親らしいことって全部兄さんからしてもらった
 から。」

 "お父さん"がどんなものかは知らない。
 でも、レイや他の友達の話を聞いてると兄さんみたいだった。

「…母さんも貴方だけは特別っぽいし。」
 見ていてすぐに分かってしまった母さんの"特別"。
 他の人とは違う態度にすぐに気づいた。

「だからホントは… ずっと兄さんが父親だったらなって思ってた。だったら納得できたし、祝
 福もできたのに。」
「アカツキ」
 見上げると、アスランはすごく困った顔をしていたけれど。
 でも言葉は止まらなくて。
 アカツキは泣くのを堪えて彼に縋りつく。

「でも、やっぱり、違ったの?」




「―――だってさ、キラ。」
 質問に答える前にスイと視線を逸らしたアスランは、そのまま扉の方を振り返る。
 アカツキもそれに倣って後ろを見て、そこに立っていた彼女に気づくと愕然とした。

「!! 母さん… 今の聞いて…!?」
 泣きそうになっているのを見られたのと、聞かれたくなかったことを聞かれたことと。
 気づかなかった自分も悪いけれど 途端に恥ずかしくなってアカツキは真っ赤になる。
 何も言われず見られている、それがまた居たたまれなさに拍車をかけた。

「俺はもうふっ切ってるけど、アカツキはそうはいかないみたいだ。」
 どこか呆然と立ち尽くしているようにも見えるキラに、一人冷静なアスランが苦笑いしつつ声
 をかける。
「そろそろ教えてやっても良いんじゃないか?」
「……」
 やんわりと促してみても意志の固さはあいかわらずで、キラは無言で俯いて目を逸らす。
 けれど、言わない理由もアスランは理解していた。
「…俺がいたら話せないか。」
 そう言って立ち上がる。
 びくりと彼女の肩が一瞬震えたことには気づかないふりをして。

「―――愛してるよキラ。返事はいつまでも待ってるから。」
 こめかみにキスを落として、キラと入れ替わりにアスランは部屋を出て行った。





*******






「アカツキ…」
 俯いてしまったアカツキにキラの方が静かに近づく。

 何も言わないから気づかなかった。
 聞かれないからそれで良いと思っていた。
 でもそれは間違いだったのだと、今更ながらに知った。

 そしてそこで自覚する。
 どんなに大人びて見えても この子はまだ10にも満たない子どもだったのだと。


「…ねぇ、僕の父さんって誰なの? 本当にいない、なんてことはないんでしょう?」
 直球の質問に 彼の肩に触れようとした手がぴたりと止まる。
 そうして顔を上げて見つめてくる息子は泣きそうな顔をしていた。
「アスラン兄さんじゃないのなら誰なの? ねえ!!」
 すぐに答えられずにいたらそれをどう思ったのか、腕を掴んで必死な様子で訴えてくる。
 不安で不安で仕方がない、そんな感じだった。
「君は僕の子だよ。それだけじゃダメなの?」
 それでもまだ逃げの言葉を選んでしまう。
 それを理解したのかしていないのかは分からないけれど、その途端アカツキの瞳が大きく揺れ
 た。
「だって 不安になるんだ! 僕は本当に愛されて、望まれてできた子なの!? 母さんはあの人
 が好きなんでしょう? ずっとずっと好きだったんでしょう!? なのに僕があの人の子じゃな
 いなら……!」
「アカツキ…ッ」
 それ以上は言わせたくなくてギュッと抱きしめる。
 そして囁くようにごめんと何度も謝った。

 あんなこと言わせるつもりはなかった。
 そんな風に思っていたなんて思いもしなかったから。
 でもキラが逃げたせいで この子をここまで追い詰めてしまったのだ。


「―――君はちゃんと愛された子だよ。愛した人との子だよ。」
 抱きしめたまま誰にも言えなかった真実を告げる。
 アカツキが欲しかった言葉を。キラにとっては今ですら夢だと思う奇跡の事実を。

「愛してなきゃ産めないよ。君は僕の支えだったんだ。」

 澄んだ新緑の色、翡翠色のきれいな瞳。
 それはあの人と同じ。たった一人愛した人の色。

「…じゃあ、僕のお父さんは……」
「うん…そうだよ。」
 素直に頷いてみせたら、「良かった」と呟いて腕の中のアカツキから肩の力が抜けた。





「…ねぇ、どうして応えてあげないの?」
 珍しく恥ずかしがりもせずに腕の中にいるアカツキが素朴な疑問とばかりに見上げる。
 それにキラは少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「聖母には夫はいても、子の父親はいちゃいけないんだ。―――っていうのは冗談だけど。」

 アスランとアカツキは似過ぎていて もうほとんどの人は気づき、そして疑念を抱いていると
 思う。
 疑念が確信にならないのは、当時僕と彼が接触したというデータが存在しないからだ。
 バレてしまったところで、それは戦争によって引き裂かれた恋人同士として悲劇性を強め、群
 衆の興味を引くだけだから特に問題ない。
 中には僕がプラント側に寝返るかもしれないと思う者もいるからそちらとは多少の揉め事が起
 こるかもしれないけれど。
 でもそれは障害でもなんでもなくて、要は僕自身の気持ちが1番の問題で。

「好きなだけじゃ結婚できないこともあるんだよ。」
「どうして?」
 今日のアカツキは質問攻めだ。今まで聞けなかった分をここぞとばかりに突いてくる。
 けれど一度認めてしまったらキラももう隠す気はなかった。
「もし、僕が地球軍の聖母じゃなくて、彼がプラントの評議会議長じゃなかったら…… 結婚は
 もっとあっさりいったかもしれない。なんて。」
 それも理由のひとつではある。
 でも、キラの場合はそれだけじゃなくて。
「アカツキを産むと決めた時にね、彼を捨ててしまったんだ。だから僕はもうあの手は取れな
 い。」

 一度は切り捨ててしまった人。
 愛していたけど手放してしまった人。

 それでもあの人は自分を求めてくれたけれど、でも、

「それに彼が好きなのは昔の"キラ"だもの。僕はもう何も知らない少女じゃないから。アスラ
 ンは僕の向こうに"僕"を見てるだけだよ。」

 アスランが好きなのは月の頃の"キラ"。
 少女だった自分。
 きっと今の"キラ"じゃない。

「…分からないや。」
「アカツキには少し早すぎたかな。」
 眉を寄せて首を捻る息子にキラは苦笑う。
 それを理解するにはアカツキはまだ幼すぎた。

「…でも、母さんは好きなんだよね?」

 確認するように問われた質問に、―――キラは笑顔で答えた。







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やっぱり長い…
そしてすれ違ってるアスキラ。



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