聖母 −朝−
いつもより少し早めに起きたせいか眠い。
大きなあくびをひとつして、涙を指で擦る。
キッチンからはトーストの香ばしい匂いとじゅーっと卵が焼ける音。
今日の朝食は何だろう。
「おはよう アカツキ。」
足音に気が付いた母さんが振り返って微笑む。
自分もおはようと返すとますます嬉しそうに笑みを深めて。
いつまで経っても可愛らしい少女のようなこの笑顔に、多くの男は赤面したりするんだろうなぁ
なんて思う。
…もう少女の域はとうに過ぎているはずなんだけど。
でも、実はそれは比喩でもなんでもなくて。
実際記憶にある限り母さんの容姿には変化がない。
マリュー姉さんもそうだけど、女の人ってすごいというかなんというか。
そう言ったらまた子供らしくない発想とか返されるんだろうな。
「今日は早いね。日直?」
すでにフライパンに視線を戻していた母さんが尋ねてくる。
そういえば言ってなかったっけ。
「レイと課題をまとめるから早めに行こうって約束してんの。」
「へぇ。」
感心したように言われるのは、母さんは課題をサボる部類の人間だったから。
さすがに今は違うらしいけど。
そういうところ似ないで良かったね、なんて笑って言われたことがある。
「―――あ、そうだ。あの人起こしてきて欲しいんだけど。」
椅子に手をかけたところで思い出したように言われたそれ。
引くのを止めて母さんの方を見た。
あの人―――誰かは言わなくても分かる。
だって他にいないから。
「来てたんだ。」
「昨日君が眠った後にね。今日は会議なんだって。」
断る理由もないから、ふーんとだけ言って踵を返す。
あぁ久しぶりに朝から一仕事だなぁなんて考えながら。
「よろしくねー」
戻ってくるまでに朝食は準備しておくから。
そんな声が後ろから飛んできた。
トントンと軽い足取りで階段を昇る。
そしてあがりきる頃にはすっかり目も冴えて、自然と足も速くなっていた。
あの人が泊まるのは半月ぶりくらいになるだろうか。
その数が多いのか少ないのかは、基準がないから分からないけれど。
普通じゃないのは知っている。
その人は今プラントで1番偉い人だ。
TVで見ない日はないくらい忙しくて、いつも地球とプラントを行き来している。
今回もそういった関係の何かがあるんだろう。
で、何故か。
地球に来るとこの人は必ずうちに来てたりする。
普通は高級ホテルだとかカガリ姉さんの屋敷だとかに泊まるんだろうけど。
気が付くと当たり前のようにうちにいる。
物心付いた時からずっとだから特に気にしてないけど。
僕にとって、その人は"お父さん"みたいな人だ。
母さんは未婚だから父親ではないけれど。
でも、僕はその人が好きで、尊敬もしている。
休日に遊んでもらったりどこかに家族で出かけたり。
母さんには話せない相談事を聞いてもらったりもした。
本来父親から受け取るものを僕はその人からもらったから。
前に単身赴任の父親みたいだと思った通りに言ってみたら、その人は嬉しそうに頭を撫でて
くれた。
その人は母さんのことが好きで、結婚して欲しいって何度か言ってるって聞いた。
母さんはなかなか首を縦に振らないみたいだけど。
…でも。母さんもきっと好きなんだと思う。
他の人にはきっぱり断るのに その人だけにはどこか逃げてるし。
こうして家にいることも許してる。
あの人の前でだけ、母さんは表情がコロコロ変わるんだ。
たいていは怒ってるんだけど、どこか幸せそう。
この人なら母さんを幸せにできるんだろうなって思う。
だから、僕はあの人が好き。
考えを巡らせるうちに寝室にたどり着いた。
もちろん客室ではなく本来は母さんが寝ているはずの部屋だ。
カチャリ
そっと開けると中は薄暗い。
…確かにこの人のことは好きなんだけど。
これだけは勘弁して欲しい。
―――寝起き悪いんだ、この人。
時間もないし、1番手っ取り早い方法でいくことにする。
「起きない方が悪いんだからね。」
本人が聞いたら理不尽だと言うかもしれないことを呟いて。
フッと笑みを浮かべて1つ息を吐く。
目指すはあのベッドの山の上。
扉傍から思いっきり助走して、ベッドの直前で絨毯を蹴る。
ふわりと宙に浮いた身体はちょうど良く山の上に降りて―――
ドスッ
良い音とともにぐっと息が詰まる声がした。
「おはよ。朝だよ。」
けれどそれはあえて無視。
そのまま反対側にぴょんと降りて、カーテンを勢いよく開ける。
途端入って来る光が眩しくて目を細めた。
「…もう少し優しい起こし方はないのか?」
寝起きのせいで少し掠れた低い声。
「呼んだくらいで起きてくれるなら考えるよ。」
「……」
意地悪に返事を返すと相手は言葉に詰まってしまったようで。
今日も勝ったと くすりと笑んだ。
…本当は。
寝起きが悪いのにも理由があるのを知ってはいるけど。
でも起こす方の身となればこのくらいは許してもらいたい。
振り返るとその人は 渋い顔で髪を掻き上げながら起き上がっているところだった。
けだるげに膝に頬杖をつきボケッとしているこの人は、どう見てもプラントのお偉いさんには
見えないんだけど。
準備が整えば、まだ20代前半にもかかわらず、周りを圧倒するほどの威厳と風格を備えた
人物になっているから不思議だ。
さらにこの特別に整った容貌がその近寄り難さに拍車をかけている。
母さんも相当美人だけど、この人もすごく綺麗な顔をしている。
並ぶと対のお人形みたいに見える、そう言ったのは誰だっただろうか。
「シャワー浴びるんだよね。はい、コレ。」
クローゼットから適当なパジャマを取り出して投げる。
何故この部屋に当たり前のように彼の服があるのかはすでに愚問。
僕にとってもそれは当たり前のことだ。
受け取った方は、それを手にとって嫌そうな顔をする。
「面倒だな…」
どうせすぐ脱ぐのだし、というのがこの人の考え。
実は僕も同じ考え。
でも母さんはそうじゃないから。
「素っ裸で家の中歩いたら母さんにまた怒られるよ。」
前科者に指摘すると彼は苦笑で返してくる。
母さんが顔を真っ赤にして怒鳴ったのは記憶に新しく、彼もそれを思いだしたのだろう。
けれど、そこで「何を今更」と この人が呟いていたのはここだけの話。
「背、伸びたか?」
先に行こうと部屋を出たらすぐに追いつかれて。ポンと頭を叩かれた。
「当たり前だよ。伸び盛りだし。」
わしわし頭を掻き混ぜられるのが擽ったくて肩を竦める。
こんな時ふと思う。
"お父さん"ってこんな感じなんだろうなぁって。
無意識のこんな仕種が嬉しいこと、この人は知らないんだろうな。
「あぁ もう7歳だもんな。」
手を止めて そう言って笑ってくれる。
覚えてくれていることが嬉しい。
それが大きいことでも些細なことでも。
本当に、この人がお父さんだったら良いのに。
「道理で重いはずだ。」
しみじみ言われたセリフにぷっと吹き出した。
「…年寄り発言だよ。アスラン兄さん。」
「悪かったな。」
お前も可愛げのない子どもだとか返されて。
コツンと軽く小突かれた。
2人で一緒に降りていったら、母さんの"準備できてるよ"って笑顔付きの声。
その後の、母さんと兄さんの挨拶から母さんが「アスラン!」と顔を真っ赤にして叫ぶまでは
いつものことと放って。
湯気の立つ温かなスープを吸った。
---------------------------------------------------------------------
戦後 アカツキ7歳。
BACK